【1章・幼少時代】
日本陸軍軍人であり、戦後活躍された栄養学者「川島四郎」の幼少時代。
■➀東本願寺の幕末から明治■
川島四郎は1895年に京都で生まれました。
父は川島幸之助(1842~1912)は、東本願寺の寺侍であったため、鳥羽伏見の戦いにおいては徳川方で出陣したようです。
京都の東本願寺は、1602年徳川家康から烏丸六条の地を寄進されて現在の場所になったようです。そのため、徳川とは関係の深いお寺であったようで、鳥羽伏見の戦いにおいては徳川方に与し、寺侍である幸之助は参加したようです。
幸之助がいつから東本願寺と関係を持ったのかは定かではありませんが、1864年22歳のときには禁門の変による戦火のため、阿弥陀堂と御影堂(両堂と略される)と以下諸堂が焼失しています。
そして、1868年26歳のときに鳥羽伏見の戦いに参加し、越後高田まで落ち延びたようです。その高田の地で結婚しています。
1871年29歳のときに赦免となって京都に帰ったようです。
明治期に入ると、新政府による神仏分離令や廃仏毀釈の動きによって、東本願寺も苦境に陥ったものの、新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大な懇念によてい財政再建が果たされ、禁門の変以来消失していた両堂が1880年に起工され、1895年に落成されています(世界最大の木造建築)。
幸之助は京都に帰り、また東本願寺に戻り、内陣(本尊)係となっていますから、この両堂の落成に大きく影響されていると思われます。
そしてこの1895年に川島四郎は、川島幸之助の6男として生まれました。
3人の兄は篆刻・彫刻・書道と芸術分野で活躍したのも、この東本願寺両堂の落成に関わっていた父の造詣なども影響するのであろうか。
■②日清戦争の1895年2月8日■
因みに川島四郎の生まれた1895年2月8日の「大阪朝日新聞」が残っているようです。
そこには日本海軍の水雷艇の「小鷹号」が清国の軍港威海衛の奥深くに侵入し、甲鉄艦「定遠」と「鎮遠」を撃沈したニュース載っているようです。
「定遠」「鎮遠」は共に清国側の主力艦であったようですが、このとき「定遠」においては自沈し、「鎮遠」は日本軍に鹵獲されているようです。
■③豆腐百珍■
1782年江戸時代に出版された『豆腐百珍』という豆腐料理を100種類紹介した本があります。
豆腐料理が日本でもっとも発達したのは江戸時代の元禄の頃で、この本が出版された江戸時代末期の天明年間で、おそらくこの頃が豆腐文化の頂点と考えられる時代の本のようです。この本が人気を博し『~百珍』シリーズの本が色々当時出版されたようです。
その本を川島四郎の母が1908年(13歳のとき)に借りてきて、川島四郎にこの本の筆写を頼んだようです。
父が東本願寺に仕えていた人であったため、川島家では精進日(親鸞上人のご命日、蓮如上人のお逮夜とか)が多くあり、母は大豆料理を多く作っていたため、このエピソードに繋がったようです。
この『豆腐百珍』が食物への興味を最初にもたらしたかくれた要因だったというような事を川島四郎は語っています。
【参考資料】
※…『川島四郎 九十歳の快青年』山下民城、1983.10.9、文化出版局
※…https://www.shingr.jp/shinran/10/h\002.html親鸞ゆかりの地のHP
※…hhttps://www.higashihonngannji.or.jp/about/history/東本願寺HP
※…https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BAウィキペディア「東本願寺」
※…https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90%E7%99%BE%E7%8F%8Dウィキ「豆腐百珍」
※…『日本食長寿健康法』川島四郎、1991.12.20、新潮文庫